高田工務店

ココロとカラダにやさしい自然素材の家

高田工務店百年の歴史

二代 高田 五兵衛

高田家の発足は天保十二年十二月二十日、福井県大飯郡車持村郷信五助の次男として生まれた五兵衛が、文久二年五月二十日故郷を出て福井県小浜町日吉に移り、林田を名乗り絞油職を開業したに始まります。

二代五兵衛は明治九年十月三十日、初代五兵衛長男として生まれました。幼名を五三郎と言い、明治十六年十二月に父五兵衛が隠居すると共に五兵衛の名を襲名して居ります。父五兵衛は同時に名を五平と改めました。

此の頃には世の中も進み、灯火が斜陽化して電灯となりましたので、絞油職も以前の様にはゆかなくなりました。

そうして二代五兵衛は小浜を離れ、明治四拾弐年に京都府加佐郡新舞鶴町に移りました。

此処に高田家の京都府での第一歩が始まる訳で高田家は、初代五平が車持から小浜に出て絞油職となった一つの流れと、二代五兵衛が新舞鶴町に移り、製材業を始め、三代政治が建設業の基礎固めをしたもう一つの流れとの二つがございます。

明治四拾弐年、二代五兵衛は新舞鶴に移りますと古森材木店で木材取引を見習いました。当時の住宅は木造で、そのために建築の世話まで頼まれる事になり、五兵衛は自分で大工を傭い請負を始めました。

五兵衛は新舞鶴町で町会議員もして居りました。
高田家に二代五兵衛を描いた肖像画が残って居りますが之は高田家に間借りして居た貧乏絵師が下宿料のかたに描いたと云う羽織袴、紋付姿の座像で、此の様な姿は何も絵の中丈で無く、日頃も此の服装で押し通して居たと言います。其の反面株にも手を出す新しがり屋で、当時珍しかったラヂオで相場に耳傾けると云う風でした。[二代 高田五兵衛]

ニ代目五兵衛は昭和十年一月二十二日に舞鶴市字浜の自宅で亡くなりました。享年五十九才でした。

三代 高田 政治

三代政治は五兵衛の一人息子で、明治三十六年三月二十七日に小浜で生まれました。政治も父に劣らぬ程事業熱心で、父の後をつぎ、特に工事請負を時流に乗せ発展させました。之が高田組の発祥です。[三代 高田政治]

建設工事は舞鶴が軍港だった丈に、時局が戦時色を深め軍関係工事が益々増大するにつれ、高田組も其の影響で海軍工事の直接指名を受けるまでになりました。それで高田組が当時施工していた工事は軍一本と云って過言ではありません。

昭和十六年頃になりますと、時局は更に戦時色を深め、舞鶴は軍港地丈に其の影響で町は軍人や徴用工で溢れました。反面国に依る各種統制も直接響いて参りました。

製材は京都府が一丸となり京都木材株式会社に、小運送も舞鶴の業者が合併して舞鶴合同運送株式会社を作って居たのですが、之も政府の指導で日本通運株式会社に合併となりました。

此の様に軍港と共に歩んで来た高田家も海軍物品納入代理業と高田組の二事業が残りました。

  • 昭和二十七年 寺川筋河川復旧工事
  • 万代橋 before
  • 万代橋 after
  • 昭和二十八年 国立舞鶴病院看護學院宿舎増築
  • 昭和二十八年 和田中学校体育館新築工事
  • 中舞鶴駅本屋修繕工事

戦争が終わりますと舞鶴は旧軍港で有り、戦後は引揚港となりましたので、進駐軍が駐留致しました。進駐軍の本部は旧海軍機関学校で、松ヶ崎海兵団跡に駐屯部隊が這入り、憲兵隊跡は軍政部でした。当時進駐軍は組と云う字を嫌い、軍政部の指導で河田組は河田工業株式会社に、高田組は株式会社高田工務店に名称変更を致しました。此の時代にも民間工事や、学校建築等の官庁工事も皆無ではございませんでしたが、舞鶴は戦災に会って居なかったので、建築工事と名のつくものはほんの微々たるもので、高田工務店の仕事も年間通じて船が七割、其の他で三割という構成でした。

其の後造船所は飯野産業株式会社によって引継がれる事となり、飯野産業舞鶴造船所が生まれました。高田工務店も管業部より引続いて舞鶴造船所の下請けとして船舶沖修理に従事致しましたが、造船所にもしばらくしてかげりが出て参りまして、其の対策として造船所の中に新たに建設部が生まれました。
丁度其の頃、舞鶴造船所倉谷工場の隣接地が財務局管理地として空いて居り、此処に舞鶴市誘置工場として日出化学舞鶴工場が新設される事となり、建設工事は、飯野建設と吾が社で施工する事となりました。昭和二十五年より二十六年にかけての事です。

昭和二十六年に這入りますと、日本板硝子株式会社舞鶴工場が、市内大波下に建設される事になります。之は舞鶴市が行いました誘置工場としては最大規模のもので、敷地造成は舞鶴市で行い、板硝子に提供致しました。そんな訳で市当局としては、工事施工は是非地元業者という要望でしたが、日本板硝子としては此の工場の建設に会社の存亡をかけて居り、地元業者は小規模なので、工場の建設はあくまで会社出入りの大手業者にやらせるが、宿舎関係は地元業者にやって頂きましょうと云う事になりました。
地元に古くからある業者ならば安心であろうと云うので吾が社と、河田工業とが選ばれたという事を聞いて居ります。[昭和二十七年 寺川筋河川復旧工事]

昭和二十八年に近畿一帯を襲いました十三号台風は、舞鶴地方にも山崩れを起こし、堤防を決壊し、橋梁を落して多数の死者が出る大災害となりました。
当時高田工務店は土木工事では地元最大の実績を持って居りましたので、此の復旧工事に当って他の業者を上廻る工事を請負いました。

舞鶴などに大きな被害をもたらした昭和二十八年九月二十五日の台風十三号の災害から半世紀。舞鶴では連続雨量471.6ミリ、最大風速40.6メートルを記録した。家屋の全壊が339戸、半壊1856戸、床上浸水4602戸、道路の決壊274ヵ所、橋梁の流失99ヵ所。山崩れなどで死者は53人、被災者は約88000人、被害総額は57億5300万円にのぼった。与保呂川にかかる万代橋が落ちて復旧作業をしている様子

その後、多くの工事と要職を重ね、社会貢献した三代政治も昭和五十一年十一月十六日に亡くなりました。

先代守は、大正七年三月四日に足立亀次郎次男として生まれました。そして、高田政治と養子縁組、長女初枝と結婚して姓を高田に改めました。
しばらくして、旧来の住宅、事務所が老朽化して白蟻の巣となりましたので之を解毀して、昭和五十四年に鉄筋コンクリート造の新社屋として出来上がりました。
或る時、先代守は此の様に言われました。「石橋を叩いて渡ると言うが、高田さんは、石橋を叩いても渡らないのではないか。」此の人は仲々うまい事を云うと思いました。

高田さんは経営が堅いと好く人に言われますが、之は褒言葉とも、貶されたともとれる言葉で、考え様に依っては之有るが故に高田工務店も今日迄やって来れたのかもしれません。
お陰様で、吾が社は老舗として残って居ります。必ずしも古きを尊しとしませんが、事業も生物と云われる丈に、今日まで生きのびると云う事は大変な事であったと思います。

三代政治と共に会社発展に寄与した先代守も、平成四年九月二十三日に亡くなりました。
五代目稔は、昭和四十九年に大学を卒業後、当時の旧国鉄工事を多く手掛けていた大鉄工業(株)で五年間修行をした後、実家の家業を継ぐ為に五十三年に入社致しました。

その後、輸入住宅であるワシントンホーム・大同建設・フロンヴィルホームなどの提携を経て、賃貸・事業・リフォーム事業のLIFA店、住宅事業の夢ハウスとのVC、その他健康・環境をメインとした企業との提携に力を入れ、民間主体と致しまして現在に至って居ります。

今後も代々受け継がれた財産を大切にし、お客様のお役に立てる工務店を目指して精進してまいりますので、どうか宜しくお願い申し上げます。

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